鰹節の歴史のはなし
我々日本人のカツオとの付合いは非常に長い歴史があります。
日本最古の文献「古事記(712年)」によると、カツオが初めて登場するのが、古墳時代の雄略天皇(480年頃)の頃といわれています。「堅魚を上げて社屋を作れる家・・・」「堅魚(かたうお)」という名前が用いられています。
今日では神社建築にのみ見られ、棟木の上にかつお節に似た円柱状の飾り木が横にならんでいます。これを「堅魚木(かつおぎ)」と呼びます。堅魚とカツオには何らかの関係があるといわれていますが、定かではありません。別の意味からきているともいわれています。
飛鳥、奈良時代
カツオには干物あるいは生食の他に、調味料としての記述が「大宝律令(701年)」さらに「養老律令(718年)」に一種のエキス造りであろうと考えられる部分がありますし、また「大宝律令」「養老律令」その賦役令により、カツオ製品が重要貢納品に指定されています。
平安、鎌倉時代
平安の頃になると、「堅魚」を貢納する10ヵ国名が挙げられています。さらに「和名抄」の調味料の部で「堅魚煮汁」が紹介。鎌倉前期になると「厨房類記」に鰹(干しカツオ)の「鰹煮汁」料理が記されています。
室町、安土桃山時代
「四条流包丁書」に「花鰹」の記述が見られることから、硬いかつお節を削って使っていた事がわかります。
江戸時代
江戸初期ごろになると、「長崎の唐人貿易」にポルトガル船により多くの鰹節を輸出していた事が記されています。江戸期の料理本は鰹節が調味料の必需品として扱われ、「料理物語」では鰹節だしを使った料理の事が多くでてきます。また、初めて鰹節の特質や製法、産地などをまとめた「本朝食鑑(1697年)」、「和漢三才図会(1712年)」が出されています。その後「日本山海名産図会(1799年)」では、更に事細かく詳しくまとめられています。
鹿児島へは1704年頃に、紀州の森弥兵衛が鹿籠(枕崎)に移住し本格的な鰹節製法(現在により近い製法)が伝えられています。1700年後半から1800年には「譚海」、「一話一言補遺」などにカビ付け製法が解説されています。更に1820年頃になると、流通も盛んになっており「鰹節番付」が出されています。もちろん藩名、地名付き(土佐、薩摩、紀伊、阿波・・・肥前の五島、肥後の牛深など)この様に鰹節も一般的になっていきますが、江戸時代の薩摩節・土佐節・熊野節は特に優良製品として知られていたようです。
明治期にはいると、薩摩節・土佐節・伊豆節が三大名産品と言われるようになりました。明治30年頃には、土佐節と伊豆節の長所を取り入れ、徹底した焙乾、カビ付けを行い鰹節の本流となる「本枯節」焼津節ができました。そして現在に至っています。